经营地摊的福顺(金高恩饰)和唯一的妹妹相依为命,虽然有点不足但福顺是出了名的“疯女子”,只要一得罪她便等于惹了大祸。某一天在福顺面前出现了一个冷血杀人魔泰秀(李民基饰),为了隐瞒自己的秘密泰秀还加害于她的妹妹,为了替妹妹报仇,毫不犹豫拿起刀的福顺,而泰秀省得麻烦,也打算干脆把福顺也杀死。
杀人魔独白:
曾经有人和我说过,不畏惧任何东西的人才是最可怕的,我杀了好多人,毫不犹豫的,谁答应我帮忙的请求,我会连那个人也杀掉。但在今天,我却碰到了个奇怪的女人,一个行尸走肉活着的疯女人,好像挺有意思的。
福顺的独白:
虽然我比不起其他人的生活和能力,但我是个很守约定的人,我曾经对奶奶发誓,我绝不会让任何人伤害妹妹一条头发,今天,我却遇上了一个没血没肉的冷血杀手,我一定会追杀到底。他,真的杀了我妹妹?
觀影提醒:這部電影不要觀看任何解說、簡介、影評進去會得到最完整的感受!
我敢打包票說這是我有史以來最認真觀影的一次,我覺得我是全身心投入在電影裡面,用心去感受音樂、畫面還有劇情,而且是自然而然的便會想努力將五感都專注在其上,我覺得導演的功力真的很棒。我覺得我得到的感覺是很私人的、很難以形容的,很難去用文字描述,或許我用文字寫下的感受於我而言也不是那麼準確,所以需要自己去觀影而不是看別人解說才能理解其中奧妙。
坂本龍一的配樂真的很美,不是我要誇張,但是真的有放大人的五感的作用,而且跟劇情很適配也不突兀。再來說是枝裕和和坂元裕二,運用三個不同視角達到了懸疑片的效果,當你敏銳的感知到線索的串連及呼應,驚喜感是直接在腦中迸開的。台詞也是非常美,富含哲理,由最純真的孩子口中說出某種程度上也讓我們了解他們的早熟。攝影部分我很喜歡一些關於景色的空鏡,那個山湖景對我來說就像一個信號般告訴我故事又將從這裡開始。剪輯也有很多地方可講,有點諾蘭玩弄時間的味道,時間線一開始像一綑毛球全部纏繞在一起,但是觀影同時慢慢梳理後時間線其實非常清晰,慢慢拼湊出所謂的真相以及關於主角們背景的整個脈絡,完全沒有因為剪輯手法損壞故事的完整性。
演員的部分必須要提到的絕對是安藤櫻,演技實在太好了,光是從面部的表情跟細微的抽搐就可以感受到她傳遞的情緒,肢體動作的爆發力也很強,從她的表演中我可以看到一個擁有很多面情感、很立體的母親。
我很喜歡這個主題,儘管我在觀影前完全無法參透是枝裕和到底想說什麼,但是看完之後我是深深折服。前期我沈迷於線索的尋找及感官的享受,到了湊去依里家的那段我才猛然意識到這是一部關於性少數群體的電影。
劇情不斷抽絲剝繭,逐漸接近核心,也讓我跟著導演的腳步探索故事全貌,這樣的手法也讓我能面面俱到,不錯過每個人的想法,我也非常享受被引領的過程。
我想導演是想從家庭、學校、人際關係等等不同面向,以及世人普遍對於同性戀的開放程度,來探討這樣壓抑的環境下,覺醒不同自我的孩子的成長以及其過程。
片名取為怪物,我想是在指代那些因為自己跟別人不同,而以為自己是怪物的他們;以及那些因為其他人不理解,而被稱為怪物的他們。在觀影的同時,我會疑惑誰才是怪物?誰更應該被稱為怪物?
依里因為自己不一樣的取向以及父親的責罵及矯正,才以為自己生病、是豬腦、是怪物。而湊因為懵懂之中意識到自己的情感,才會出現反抗心理,想保護喜歡的人但又想隱藏自己的喜歡,所以不惜用偏激的方法,做出一些外人無法理解的舉動,成為老師口中霸凌別人的孩子,也因為發現自己對同性有模糊的好感,過於害怕與抗拒而以為自己是怪物。他們有心魔的主因是本我,而外人言語上的加成促使他們為自己設下保護傘,將心底最真實的聲音用其他方式呈現,成為了怪物。
而母親和教師的角力則是另一個值得探討的主題。在老師眼裡暴走的家長是怪物;反之在家長眼裡,施暴的老師才是怪物。但漸漸拼湊出全貌之後才發現她只是護子心切的母親、為了兒子付出了一切,因為兒子是她僅存的依靠;他只是充滿熱忱的新進教師,因為謊言抹黑失去工作抬不起頭。
所以誰是怪物,只能說每個人都是也都不是。
導演運用三條線給了我一個理念:凡事不要先入為主。在看第一幕母親視角時我會覺得這個老師真壞;在看第二幕老師視角我又覺得這小孩真可惡;在看最後湊及依里的視角我才真正聚焦到他們純粹的感情上,所以沒有壞人,有的只是角度不同造成的解讀事情上的差異。
在我未知事件全貌時我會期待、想挖掘誰是壞人,但導演選擇打破既有框架,每個人都可以是壞人也可以不是,甚至以愛去化解後每個人都是善良的本意,母親和老師兩個對立的人物共同去深山中尋找孩子;而抗拒自己情感的孩子們則接納本我並與自我和解。
還有一條線是校長的線,我想有點對比的味道,校長跟頂罪的丈夫對比湊和依里。所以當他們共同吹起樂器時,還有校長在雨中淋雨時,我覺得我是在釋然的過程,誰錯誰對並不是那麼重要,我並不是想要知道每個人的惡,我是在發掘他們的愛來包容可能的惡。
有一幕我特別喜歡:母親和保利老師在努力撥開窗戶上的塵土時,不管如何努力光線依然被擋在外頭。但當風雨過去,湊和依里重生,從世界的另一頭走出來,重新在草地上奔跑,他們將奔向哪裡我們並不知道,但這時畫面霎時變白,我想他們將奔向光明的未來,願他們在包容的世界一起奔跑。
少年的情慾,
如坂本龍一寫下的確定的明滅,
又如坂元裕二畸戀中的猶豫掙扎,
令人莞爾。
少年們惶恐地遮蔽不合規矩的自然,
成人們僵硬地展現煞有介事的真誠。
一個未來是宇宙初生時,
一個未來式宇宙毀滅日。
什麼是未來,
未來需要被嚴密建構,
用愛和理性的名義,
窒息自然的爛漫。
卑劣在孩童叫嚷聲中恣長,
未來在當下膨脹中趨近毀滅,
眾人拼湊的記憶只能宣告使徒的來襲,
一場大火燒掉的只有徒勞。
他們踩著舞步,跳躍招搖,
用怪物消解一切的桎梏。
五色鳥和杜鵑的哀啼,
盛夏中的宇宙衰敗到了終點。
列車駛出,
風雨與陽光在夢中碰面,
世界盡頭,
兩隻手終於牽在了一起
#是枝裕和导演映后谈
很喜欢这部电影的叙事方式。分三个篇章,采用三方视角,逐渐厘清同一条故事线。然后你会发现,从外界视角看到的混乱恐惧焦虑和各种各样的“怪物”,实际都是纯粹的情感在机缘巧合下造成的多重误会。悬疑性也非常足。
“怪物”究竟指的是谁呢?麦野对母亲说自己被老师骂为怪物、母亲是为保护儿子大闹学校的怪物、保利是被说成体罚学生的怪物老师、星川被父亲认为是有病的怪物。
明明大家都是纯粹善良的人,做着情理之中的事,却会因群体、舆论、谎言、偏见、社会被视作怪物,而这样的事可能发生在任何人身上。
和是枝导演连线发现他好呆萌,每个问题都要望着天思考,一脸迷惑哈哈。(开始的时候不知道为什么他能听到我们的声音我们听不到他那边,调试了很久zoom,结果最后还是用打电话的方式把声音播出来)
问他对于“怪物”想要传递什么信息,他说这问题好难啊,我也不知道,每个人会有不同的关注点,所以看自己想看到什么。
还有一个有趣的问题是电影得了酷儿金棕榈奖,这个奖一得,大家瞬间就预判了是有LGBT元素,但前期宣传里从未提过有这样的情节。他说得这个奖的时候他都觉得很纳闷,因为他不觉得里面的内容应该定义为LGBT,只是少年成长过程中懵懂的感情。但是后来评委跟他说,这只是说明这部电影在不同的群体中都值得看,他就接受了。
是枝的残酷温馨日常流与坂元的隐隐作痛青春物语结合在一起,再伴着坂本龙一悠扬的琴声,情绪缓缓流动起来。
“虽然我也不太明白,我有了一个喜欢的人,因为不能对别人说,所以说了谎。因为如果暴露的话,就不能得到幸福了。”
“那么,对谁都不能说的话,就把它吹出来吧。”
为少年们的奔跑而流泪吧。祝福那些不能喜欢自己、不能被别人喜欢的人们,“接受真实的自己”就很好了。
是枝裕和的作品总能让观众感到惊艳,这是一部令人细思极恐、值得回味的好电影,每个人物都有一定的分量,都是十分重要的,不可或缺的一环。 影片分别从麦野凑的母亲、学校保利老师以及麦野凑与好朋友星川依里三组视角分别进行呈现和描述,他们都有一个固定的开头,一切都得从少女酒吧失火开始说起。安藤樱饰演麦野凑的母亲,虽然是单亲家庭,丈夫离世,但是她将自己全部的爱、全部的温柔都给了儿子,听闻儿子在学校遭到保利老师的欺负,母亲只身前往学校讨要说法,让欺负自己孩子的老师赔礼道歉,我想这就是一个母亲所作出的最应激的反应,但事实远不止我们想象那么简单。 正因为事情远不止想象那么简单,就有了电影中的第二个视角,永山瑛太饰演的保利老师,从起初麦野凑的母亲镜头揭示时,观众会认为他是一个虐待学生的坏老师。其实不然,有时亲眼所见并非真实,刚来学校没多久的他,是一个非常爱护自己学生,让学生不受欺凌的好老师,但是没成想,面对流言蜚语,面对舆论的压力,却被诬陷成坏老师,造成很多误会,学生不信任他,家长讨厌他,甚至连少女酒吧的女友都对他不认可,感受到了社会的残酷无情,也感受到了舆论的可怕。但是老师体现好的方面更多,片中出现这样的一个片段,在一个大雨天,他祈求得到麦野凑母亲的谅解,随后前往一处残骸寻找自己的学生麦野凑和星川依里,细节很打动人,原来老师对自己的学生非常负责,一下子这个人物就立住了。 电影从第三处视角,麦野凑与好朋友星川依里展开呈现,小编认为这部分是最精彩的,也是十分需要的。前面两处视角都是从成年人的视角出发,第三处是从两个孩子的视角出发,看到了整个事件的不同。 给我最大的感触,让小编最心疼的是星川依里,给我的第一印象,这孩子太懂事了,但是又非常可怜,和麦野凑一样是单亲家庭的孩子,但两个家庭又不相同,星川依里家里经常遭受父亲的虐待,有一处细节我记得十分清楚,孩子想自杀,多亏了好友麦野凑将他从浴缸中拉起来,背后满是被父亲打过的伤痕,从小经历这么大的痛苦,加上学校里,被班上的同学说是“猪脑子”,遭受无止境的欺凌与霸凌,麦野凑虽说是他在学校里交到的唯一一个朋友,但是在星川依里遭受同学欺负,麦野凑只能在一旁畏畏缩缩,看的心里全然不是滋味,感觉星川依里好可怜好无助。但是之后两个孩子去到了一个只有他们两个知道的秘密世界,才让我有了心灵上的慰藉,得到了些许安慰。结尾部分,他们俩打开了一扇窗,仿佛整个世界又为他们重生了,虽然这是是枝裕和为电影留下的冰山一角,但是说真的,是实打实的感动。 片中还有一个人物是非常重要的,这个人就是校长,戏份相对来说其实很少,面对自己的亲孙女被车轧死,自己不得已的内疚;为了保护学生、保护老师,面对家长使她不得不妥协;与麦野凑之间的对话,把心中的那份愧疚吹出来,学会释放自己,将悲痛化为力量,感触颇多。 总的来说,故事的衔接度是十分完整的,但是节奏的把控显得有些缓慢,不仅仅是整部电影拥有一个好的剧本,就像开头所说那样,每个人物都有一定的分量,都是十分重要的,不可或缺的一环。如果满分10分,我会给8.5分,值得深思、回味无穷的好作品。
本文翻译为人工智能翻译(OpenAI),如有错误请谅解。
MC MC戻ってきたばかりの監督からご挨拶をお願いいたします。
请刚回来的导演向大家问好。
是枝監督(以下、監督) 是枝导演(以下简称导演)2時間くらい前に羽田についたばかりなんですけれども、この作品にとって本当に素晴らしい評価をいただいたなと思っております。無事にこの脚本賞の盾を、僕が運んだわけではありませんが、坂元さんにお渡しできすることができて、ちょっとホッとしています。今日は有難うございます。遅い時間にすみません。
我大约两个小时前刚到羽田机场,对于这部作品获得如此高度评价,我真的感到非常开心。虽然不是我亲自运送的,但我很庆幸能够将这个剧本奖的奖杯交给坂元先生。非常感谢今天的机会,时间这么晚了我表示抱歉。
MC MC一足先にご帰国されていましたが、この度見事受賞されました坂元裕二さんよりご挨拶をお願いします。
虽然您已经先一步回国了,但是我想请坂元裕二先生代表我们向您致以最诚挚的问候和祝贺。
坂元裕二(以下、坂元)こんばんは、脚本家の坂元裕二です。本日はお越し下さり有難うございます。
晚上好,我是剧本家坂元裕二。非常感谢您今天的光临
こういう場に出るのは初めてですので、とても緊張していますが、どうぞ宜しくお願い致します。
这是我第一次参加这样的场合,所以我非常紧张,但还请多多关照。
質問者 提问者今回はおめでとうございます。受賞されてトロフィーを今受け取られたばかりですが、
恭喜您这次的获奖!您刚刚领取了奖杯,真是太棒了!
そのトロフィーの重み、実感みたいなものはいかがですか?
那个奖杯的重量,你有没有真切地感受到它的存在?
坂元実感は正直あまりありません。まだ受賞を初めて聞いた時に寝ていたものですから、第一報を聞いた瞬間、まず初めにまだ夢を見ているのかなと思いました。その後もまだ続いているようで、今も夢の中にいるような、そんな思いと、ただこの重み自体がやはりこの作品の責任感だと感じますので、そこは私自身、手にも背中にも乗っかったとても大きな責任だと感じております。
实感实在不多。当我第一次听到获奖的消息时还在睡觉,一开始我甚至以为自己还在做梦。之后,这个感觉仍在持续,现在仍然感觉自己像是在梦中,同时也感受到这份荣誉所带来的责任感。对我个人来说,这是一个非常重大的责任,无论是在手上还是在背上都感受到了。
質問者 提问者今回世界的な評価を受けたということで、今後映画の脚本に対する向き合い方ですとか、考え方のようなものに変化は出てきそうな予感というものは自分の中にありますでしょうか?
由于这次获得了全球范围的认可,您是否感到自己对电影剧本的处理方式以及思考方式等方面可能会发生变化的预感呢?
坂元最近、映画の脚本を書くようになりまして、ほぼ2本目のようなものなんですが、まだやはり監督のお力を借りながら、プロデューサーのお力を借りながら、ゆっくりと進んでいるところですから、やはり今回含めて周りの人のお力によるものだと考えております。
最近开始写电影剧本,虽然算是第二部作品了,但还是需要导演和制片人的帮助,所以进展比较慢,我认为这次以及之前的作品都是得益于周围人的支持。
質問者 提问者先ほど一報を聞いた時に寝ていらっしゃったということですが、どなたからどのような手段、どういう状況で一報が入ったか教えてください。
听说您在刚才接到通报时正在休息,能否告诉我是谁以及通过什么方式,在什么情况下向您通报的呢?
坂元朝方というか、深夜4時頃だったものですから、寝ておりました。着信はあったようなのですが、気付かずにそのまま寝ていまして、そのうちに、またそのニュースをご覧になった方からショートメールをいただいて、それで初めて音が鳴ったんですね。その音で気付いて、見たところ、プロデューサーや監督から、受賞しましたというお話を聞きまして、何と言いますか私はご覧のようにあまり感情の起伏がないものですから、「うれしい」とか「やったー」という気持ちよりは、何か「ズシン」という思いが訪れて、水を一杯飲みました。それが最初の行動でしたね。
与其说是什么情况嘛,其实大概是凌晨4点左右,我正在睡觉。虽然有来电,但我没有注意到,继续睡了下去。后来,我收到了一条短信,是从另一个看到那则新闻的人那里发来的。这才是我第一次听到声音。我被那声音吵醒后,看到是制片人和导演给我发来的消息,说我获奖了。我要说,我并不像你们看到的那样情绪起伏很大,不会像“开心”或者“耶!”那样的心情,而是有一种“咚”的感觉涌上心头,我喝了一杯水。这是我最开始的反应。
質問者 提问者 以前、完成披露試写会の舞台挨拶の際に、この脚本は子供の頃の記憶・経験を思い出しながら書いたとおっしゃっていました。また、受賞の後に是枝監督が紹介されたコメントの中では、たった一人の孤独な人のために書いたとおっしゃっていました。差し支えない範囲で、この作品の元になったという経験がどのようなものだったのか、また、たった一人の孤独な人という、その人に伝えたい言葉が今ありましたら教えてください。
在之前的披露试写会的舞台致辞中,您曾提到这个剧本是在回忆童年的记忆和经历的同时写成的。而在获奖后,导演是枝先生在介绍中说,这是为了一个孤独的人而写的。如果不介意的话,请告诉我们一下,这个作品的灵感来源是什么样的经历,以及如果有一句话想要传达给那个孤独的人,您现在会说什么呢?
坂元監督にお送りした、「たった一人の~」というコメントに関しては、慌てて書いたものでしたから、文章が下手だったんですが、きっとどこかにいるであろう孤独に過ごしている誰か、それは特別な誰かを指しているわけではなく、また多くの沢山の人に届けるという気持ちではなく、誰かこの映画を受け止めてくれる、そんな人がいると信じて、その人のことを頭の中で思い描きながら常に書いていました。
关于我给监督的那条“只有一个人”的评论,我匆忙写下的,所以文笔不太好,但我相信总会有那么一个人,他们或许在某个地方独自度过,这并不特指某个特殊的人,也不是为了让更多人看到,而是相信会有人接纳这部电影,所以我一直在脑海中想象着那个人,写下这些话 子供の頃に関しては、その時に話していた通りで、仲良かった友達のことや、何人かの僕が小学校時代から中学にかけて出会った友人や出来事、そんなことを思い返しながら書きました。 关于小时候,就像当时所说的那样,我写下了与我关系亲密的朋友们的事情,以及我在小学到中学期间遇到的一些朋友和事件,回想起了这些事情。
質問者 提问者感情の起伏があまりないと今おっしゃっていましたが、賞というのはもらうと嬉しいものでしょうか?
您刚才提到情感起伏不大,但是获得奖励会让人感到开心吗?
坂元周りの方から「おめでとう」と言われて初めてうれしくなります。 当别人从周围赞美你并说“恭喜”时,你才会感到开心 沢山の方から、まずは監督から、プロデューサーから「おめでとう」と、勿論チームの一人ですので、みんなでもらった「脚本賞」だと思っていますから、その時点で私が身内からお祝いされるのも不思議なことではありますが、沢山の人からその後も「おめでとう」という言葉をいただきました。それが、やはりうれしかったです。一番うれしかったのは、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督から「脚本賞受賞おめでとうございます」というメッセージが届きまして、タクシーの中にいたんですが、涙が出ました。うれしかったです。
从很多人那里,首先是导演,制片人,他们都对我说了"恭喜",当然作为团队的一员,我也认为这是大家一起得到的"剧本奖",所以在那个时刻,我被亲朋好友祝贺也是一件奇妙的事情,之后还收到了很多人的"恭喜"。这些话,确实让我很开心。最让我开心的是,导演约翰·卡梅隆·米切尔发来了一条消息,祝贺我获得"剧本奖",当时我正在出租车里,眼泪流了出来。真的很开心。
質問者 提问者是枝監督はカンヌで沢山もらっていらっしゃると思いますが、賞をもらうという気持ちはどのようなものでしょうか?
我认为是枝导演在戛纳电影节上收获了很多奖项,那获奖的心情是怎样的呢?
監督 监督勿論、うれしいです。華やかな場所が好きなわけでは勿論なく、僕も周りから感情があまり見えないと言われがちなんですが、内側では色々感情の起伏があるタイプなんですが(笑)、特に自分が褒められると、本当かな?と疑問が湧きますけれども、自分の映画に関わってくれた役者さんとかスタッフが褒められるのは、うれしいですね。今回は会場にいて、何かとても幸せな気持ちになりました。
无论如何,我很高兴。并不是说我喜欢热闹的地方,而且我也常常被人说我看不出太多情感,但其实我内心起伏多变(笑),特别是当别人夸奖我时,我会怀疑这是真的吗?但是,当别人夸奖参与我的电影的演员或工作人员时,我感到很高兴。这次在场的时候,我感到非常幸福
質問者 提问者坂元さんに質問です。受賞しそうだな、するんじゃないかなという予感はなかったんでしょうか?
我有一个问题要问坂元先生。您没有预感到自己可能会获奖吗?
坂元まったく考えてもいませんでした。カンヌに呼んでいただけたこと自体が私にとって何より嬉しいことでしたし、それ以上のことは考えていませんでした。勿論私も『怪物』のチームの一人として、作品を観てとても好きになれた作品でしたので、評価を受けると嬉しいなという気持ちでした。本音で、自分のことは全く考えておりませんでした。
我完全没有考虑过。被邀请参加戛纳电影节对我来说已经是最开心的事情了,我没有想过更多的事情。当然,作为《怪物》团队的一员,我非常喜欢这部作品,所以能得到评价让我感到高兴。说实话,我完全没有考虑过自己
質問者 提问者脚本のどんなところを評価されたと考えていますか?
您认为脚本的哪些方面受到了评价?
坂元勿論、審査される方が脚本を読んでくださっているわけではないので、出来上がった作品から脚本を評価していただいたと思うのですが、それは作品のすばらしさ、そして脚本に関しては、どうでしょう、自分ではなかなか評価しづらいんですが、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督は「人の命を救う映画になっている」とおっしゃってくださったので、もしそれが誰かの心にそうあるなら、こんなに嬉しいことはないなと思っています。
无论如何,我认为并不是有人审查了剧本后才评价了成品,而是从成品中评价了剧本的优秀之处。关于作品的精彩和剧本本身,我自己很难评价,但导演约翰·卡梅隆·米切尔先生说这是一部能够拯救人命的电影,如果这样的评价能触动某人的心灵,我觉得再开心不过了
質問者 提问者子供と親と教師という3つの視点が巧みに表現されていると思ったんですが、その辺はどういった意識で書かれたのかを教えてください。
我认为这本书巧妙地表达了孩子、父母和教师这三个视角,您能告诉我它是以什么样的意识来写的吗?
坂元3つの段階をふむのは、私が以前経験したことなのですが、車を運転しておりまして、赤信号で待っていました。その時前にトラックが停まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動きださなくて、しばらく待っても動かないものですから、私は前の車がよそ見しているのかなと思って「プップッ」とクラクションを鳴らしたんですね。そのトラックはそれでも動かなかった。
经历过三个阶段,这是我以前的经历,当时我正在开车,等待红灯。那时前面有一辆卡车停在那里,绿灯亮了,但是那辆卡车一直没有动,我等了一会儿也没有动,所以我以为前面的车在看其他东西,就按了一下喇叭。但是那辆卡车还是没有动
どうしたんだろうと思っていると、ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいらしたんです。そのトラックは車いすの方が渡り切るのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私にはそれが見えなかったんですね。それ以来、自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けておりまして、このように世の中には普段生活していて見えないことがあり、私たち、私たちと言っていいのか、まず私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気付くことはとても難しい。それをどうすれば加害者が、被害者に対してしていること、気付くこと、それができるだろうか、そのことを10年余り常に考え続けてきて、その一つの描き方として、この方法、この描き方を選びました。
我一直在想发生了什么事,终于开始动起来后,横过马路的是一个坐在轮椅上的人。那辆卡车等着轮椅上的人过完马路,但是我站在卡车后面看不见。从那以后,我一直后悔按响了喇叭,因为在日常生活中有些事情我们看不见,我们,或者说首先是我自己,对自己是受害者的事情非常敏感,但是很难意识到自己是加害者。我一直思考着如何让加害者意识到他们对受害者所做的事情,如何让他们意识到这一点,我已经考虑了十多年了,选择了这种方式来描述这个问题
質問者 提问者是枝監督に。坂元さんの脚本の優れているところ、どのように評価されているのかを教えてください。 对于是枝导演来说,能否告诉我坂元先生的剧本有哪些优点,以及它们受到了怎样的评价?
監督 监督
ぼく個人が、でいいですか?
说我个人的观点可以吗?
質問者 提问者
はい。 好的
監督 监督受賞後のカンヌの囲みで、坂元さんの脚本のどこが評価されたと思いますか?という記者の質問が出て、
在戛纳电影节获奖后的采访中,有记者问到坂元先生的剧本被评价的哪些方面?
審査員の人たちと話す機会があれば聞いてみたいなと思っていたのですが、ちょっと今回はそういう集まりがなくて、いきなり花火があがってお祭りになっちゃったものですから、ちゃんと聞けていないんですよ。それがちょっと残念なんですけれども、僕自身は最初にプロットをいただいた時から、一体何が起きているのかわからない、わからないのに読むのが止められない。どこまでいってもわからない。映画が半分過ぎても多分まだわからないということが、あぁこんな書き方があるんだなと、自分の中にはない物語の語り方でしたし、読み進めていくうちに、読んでいた自分が作品によって批評されていく、自分がその今の坂元さんのお話でいうと、クラクションを鳴らす側に否応なくなってしまうという、そのある種の居心地の悪さというんですかね、良い意味で。それが最後まで持続するということが、とても面白かったです。エンターテインメントとしても本当に面白かったんですね。それが僕は一番チャレンジしがいのある脚本だなと思ったところの一つです。沢山ありますけれども、それが一つですね。
如果有机会和评审们交谈,我本来想问问他们的想法,但这次没有这样的机会,突然间烟花绽放,就变成了一个庆典,所以没能好好询问。这有点遗憾,但从一开始收到剧本时,我就不知道到底发生了什么,不知道却停不下来地读下去。无论读到哪里,都不知道。即使电影已经过了一半,可能还是不知道,这种叙述方式在我内心中是全新的,随着阅读的进行,我发现自己被作品所批评,我不由自主地成为了现在坂元先生故事中按喇叭的那一方,这种不舒服的感觉,以一种好的方式存在着。这种感觉一直持续到最后,非常有趣。作为娱乐作品,真的非常有趣。这是我认为最具挑战性的剧本之一。还有很多,但这是其中之一
質問者 提问者坂元さんにお伺いします。先ほど映画の脚本は2本目とおっしゃっていましたが、そもそものお話として映画の仕事をやりたいということが、脚本を書かれるルートにあったという風に伺っております。例えば、フジテレビヤングシナリオ大賞に応募する前にディレクターズカンパニーの方に長い脚本を出して、それと同時に短くしたものをフジテレビに送ったらフジテレビの方で通ってしまった。でも、どうしても映画をやりたい、ということで、ご自身で監督作をやったこともある。そんな過去がありながら、近年だとドラマというものは結論が出ていないから面白い、映画は2時間で結論が出るから面白くないというような発言をされていたのもちょっと聞いたことがあります。もともとやりたかった映画の世界で、脚本という道で賞をとったということの喜びについて、どう思われていますか?
我想请教坂元先生。刚才您提到您已经写了第二部电影剧本,但我想了解一下,最初您是怎么进入电影行业并开始写剧本的。例如,在参加富士电视台青年编剧大奖之前,您曾向导演公司提交了一部长篇剧本,并同时向富士电视台提交了一份缩短版,结果富士电视台通过了。但是,由于您非常想做电影,所以也曾自己执导过作品。我听说您曾经说过,近年来,电视剧之所以有趣,是因为没有结论,而电影只需要两个小时就能有结论,所以不那么有趣。作为一名在电影界本来就想做电影的人,您对通过剧本这条道路获得奖项的喜悦有何感想?
坂元映画がつまらないと思ったことは全くありませんし、一人の映画ファンとして映画が大好きです。自分が高校生の頃に多くのこの世界にいる人達がそうであるように、映画をたくさん浴びるように見て、この映画の世界で映画をつくる仕事をしてみたい、と10代から20代前半のときはずっと思っていました。
我从来没有觉得电影无聊,作为一个电影迷,我非常喜欢电影。就像许多人在我还是高中生的时候一样,我一直希望能够像他们一样沉浸在电影的世界中,从事电影制作的工作。这个想法一直伴随着我从十几岁到二十几岁的年纪
1本映画をつくったのですが、その時に全く自分が監督という仕事に向いていないということが分かりまして、それ以来辞めようと思って25年くらいですかね、もう少しで30年くらい経ちます。30年も経つともしかしたら今ならできるんじゃないかと思ったりはしていたんですが、今回の是枝さんの仕事をみて、やっぱり自分にはこれはできない、無理だとはっきり分かりましたので、本当に映画監督ってすごい仕事だなと思いました。すみません、質問の答えになってましたか?
我制作了这部电影,当时意识到自己完全不适合导演这个工作,从那时起我就考虑辞职了,大概已经有25年了,差不多快30年了。过了30年,我有时候也会想,也许现在我能做到了吧,但是看了是枝先生的工作之后,我明确地意识到这对我来说是不可能的,真的是太难了,我觉得电影导演真是一份了不起的工作。对不起,我的回答是否符合您的问题?
質問者 提问者映画監督が凄いということは分かりましたけれども、脚本でカンヌの頂点に立った、もともとやりたかった映画で賞を取れたということの達成感、そういうものはあるんじゃないですか?
我明白电影导演很厉害,但是在剧本上能够在戛纳电影节上获奖,实现了自己一直想做的电影,难道没有一种成就感吗?
坂元そうですね。私30年前にカンヌ映画祭に遊びに、観光で行ったことがありまして。それは仕事でもなんでもなく、ユーロスペースという会社の堀越謙三さんや、亡くなられた吉武美知子さんにパスを取っていただきまして、吉武さんに案内されながらカンヌで映画をたくさん観ました。その時に、いつかここで自分の作品を上映できたらどんなに幸せだろうか、そんなことを毎晩考えていました。遠巻きにレッドカーペットを見ながら。それから30年経って、賞を獲ったということも勿論嬉しかったのですが、上映できたこと、それが30年来の願いで、願いというか忘れていた願いが蘇ってきて、ああここにあったんだという気持ちになりました。
嗯,是的。我30年前去过戛纳电影节玩,当时是作为旅游目的去的。那并不是工作,而是得到了Eurospace公司的堀越謙三先生和已故的吉武美知子女士的通行证,她带着我在戛纳观看了很多电影。那时候,我每天晚上都在想,如果有一天我能在这里展示自己的作品,那该有多幸福啊。就这样远远地看着红地毯。然后30年过去了,当然获得奖项也让我非常高兴,但更让我高兴的是能够展示我的作品,这是我30年来的愿望,或者说是我已经忘记的愿望重新浮现了,感觉啊,啊原来它一直在这里
質問者 提问者ドラマの世界でもなかなか難しい時期もあったかと思うんですよね。テレビから離れた時期もあった。ゲームの脚本を書かれたこともあった。テレビドラマに向き合うってこと、脚本家っていう職業として向き合うことが難しい時期もあったと、著書の中でも書かれていますけれども、今ご自身の脚本家の人生を振り返ってみて、やっぱり幸せの頂点というところなんでしょうか?
我觉得在电视剧的世界里,也有过一些困难的时期吧。也有过离开电视的时候。还曾经写过游戏剧本。在面对电视剧这个职业作为编剧时,也有过困难的时期,这也在您的著作中有所提及。但是现在回顾您自己作为编剧的人生,您认为最高点就是幸福吗?
坂元全く頂点とは思っておりません。なかなか日々とにかく、(記者の)皆さんも同じようにパソコンの白い紙に向かって書かれていらっしゃるかと思いますが、私も日々ただただ締め切りに追われ、文字を埋めていくということをコツコツ毎日1日中やるしか、それでしか、ものが出来上がらないので、そこになかなか達成感というものが生まれるということはなく、ただただ文字を書き貫いていく、これが自分の人生だと、振り返れば思っていますので、そこに達成感というものが、この仕事をしているとなかなかそう簡単に手に入るものじゃないのではないかなと。ただ、お客様から観てました、時に救われましたという言葉をいただけると、ちょっとそのコツコツやっていた日々を思うと、無駄ではなかったなとそんなことを思うぐらいです。
我并不认为自己是顶尖的。每天都在忙碌,我想记者们也是一样,坐在电脑前面面对着白纸写作。我也是每天被截稿压迫着,只能一天到晚埋头填字,只有这样才能完成工作。所以,我并没有什么成就感,只是一直写字,这就是我的人生。回过头来看,我觉得在这个工作中很难获得成就感。但是,当客户告诉我他们从我的作品中得到了救赎时,我会稍微想一下那些辛勤努力的日子并不是徒劳无功
質問者 提问者子供のセクシャルアイデンティティについて、かなり踏み込んだ内容の脚本と作品になっていることが、クィア・パルム賞を受賞されたことになっていると思うんですが、このテーマについては、お二人はかなり最初の段階から形を変えないまま、この企画をもんで映画化されたということになるのでしょうか?それとも色々話し合いで脚本をつくったというお話をカンヌの記者会見でされていましたが、そこのテーマについては紆余曲折があって最終的な形になったんでしょうか。
我认为这部作品在探讨儿童的性别认同方面非常深入,因此获得了奎尔·帕姆奖。关于这个主题,您们两位是从最初的阶段开始就没有改变形式,直接将这个计划拍成电影呢?还是在戛纳的记者招待会上提到的,您们通过讨论最终完成了剧本,经历了一些曲折才得到最终的形式呢?
坂元まず私からお話しますと、どんなお話でもどんなテーマでもそうなんですが、まずは取材、勉強、自分自身のこれまでの経験、それを踏まえながらとにかく自分の中にある“まずこうだろう”を捨てて、まず知ること、自分自身を疑うこと、それを考えながら取材・勉強を続けてきました。ある段階で監督含め監修の方に入っていただき、多くの指摘をいただきながら修正していきました。その具体的な過程に関しては監督の方が詳しいかと思うんですが、ただ自分たちが分かった気にならない、それはいつもそうなんですが、自分たちは何も知らないんだということを、常にふまえながら勉強していったという感じですね。そして、脚本に修正をいれ、大きく変えていきました。
首先,让我来说一下,不管是什么样的故事,什么样的主题,首先要进行采访,学习,结合自己以往的经验,放下自己内心的“首先应该这样”的想法,先去了解事实,怀疑自己,同时继续进行采访和学习。在某个阶段,导演和监修人员参与进来,给予了许多指导意见,我们根据这些意见进行了修改。关于具体的过程,我认为导演会更详细,但我们始终保持着不自以为是的态度,我们一直在学习的过程中意识到自己什么都不知道。然后,我们对剧本进行了修正,并进行了大幅度的改变
監督 监督そうですね。プロットをいただいた段階で、これはちゃんと勉強しないとまずいなと思って。プロデューサーと相談しながら、協力していただける団体の方たちに連絡を取って、最終的には、LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方に、本を読んでいただいたり、演出上どういう風な注意点があるかということをお伺いしながら、描写については現場にインティマシー・コーディネーターの方にも入っていただいて撮影をするという様な形をとりました。
嗯,是的。在收到剧情之后,我意识到如果不好好学习这个问题就不妙了。我与制片人商量后,联系了一些愿意合作的团体,最终请了支持LGBTQ儿童的组织的人来阅读书籍,并询问了他们在导演方面有哪些注意事项,同时请了现场的亲密协调员参与拍摄
もう少し踏み込んでお話した方がいいですか?
需要再深入讨论一下吗?
僕もなかなかどこまで踏み込んだ描写をするのか、彼らがどういう、要するに自認をしているのかというあたりが、演出する上でポイントになるなと思ったので。団体の方たちと話していた時に、あの年齢の子たちが、例えば自分がゲイであるとか、トランスジェンダーであるという自認、もしくは他認をするというような認識をするということは、まだ早い段階の子供たちだ、ということで、そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないかというアドバイスをいただいて、極力というか、そういう描写を脚本から少しカットした、ということはあります。
我觉得在表演中,关键是要考虑到他们对自己的认同以及他们愿意展示多深入的描写。当我与团队交流时,他们建议说对于那些年纪较小的孩子来说,例如他们自己是同性恋或者是跨性别者,或者是对他人的认同,这样的认知可能还为时过早。因此,他们建议尽量避免特定的描写,我也在剧本中稍微删减了这些内容
そのうえでーー、これはもう映画を観ていただいたうえでの話になると思うんですけれど、、、その名付けようのない、自分の中に芽生えた、得体のしれないもの、あの子たちにとっては。それを彼らは「怪物」と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう、そのことを描きたい。僕が考えたのは、そのように自分の中に芽生えてしまった、自分でも理解できない自分の感情とか存在を、「怪物」だと思ってしまうという感情とか行為というのは、色んな所で色んな状況に置かれた子供たちの中で起きているだろうなと思っていて。多分さきほど坂元さんが「孤独な人」といった人達だと僕も思っています。その子たちを、孤独な状況に追いやってしまっている私たちっていうものを、要するに彼らから見れば私たちの方が「怪物」であるという、この私たちが彼らに見返されるというスタンスを、どういう風に映画の中に描いていくかということまでやるべきだということを、その相談させていただいた団体の方と話し合ったうえで僕が学んだことでした。一番学んだのはそこでした。そこを見失わないようにしようと思いました。この辺で大丈夫ですか?
在那之前——我认为这是在您观看电影后的谈话——那种无法命名的、在自己内心中萌发的、难以捉摸的东西,对于那些孩子们来说。他们将其称为“怪物”,或者是被周围的压抑所迫使称之为“怪物”,我想要描绘的就是这一点。我想到的是,在自己内心中萌发的、自己也无法理解的情感或存在,被认为是“怪物”的感情或行为,在许多不同的地方和情况下发生在孩子们身上。也许正如坂元先生所说的“孤独的人”,我也这样认为。我们将这些孩子们推向孤独的境地,从他们的角度来看,我们才是“怪物”,这种立场是我们应该在电影中描绘出来的,这是我在与咨询团体讨论后学到的。我最大的收获就是这一点。我希望不要失去这一点。这样可以吗?
監督 监督すみません、もう一点追加を。一部でその子供たちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれと、言っているというようなことがささやかれたり、発言が飛び交ったりしているようなことを耳にしているんですけれども、観た方の感想で、なるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思うんですね。そういう感想をいくつも目にしましたけれども。決して、彼らが重ねた葛藤をネタとして扱ったつもりはありません。あの、構成上、おそらくむしろ観た方が自分が当事者としてあの子供たちと向き合うためには、これも坂元さんの脚本の技術だと思いますけれども、できるだけ振り回された方が、見終わったときに自分がどこに着地するのかということが最初に分からないほうが、いいのではないかなという風に思っておりますので、そこは誤解のないようにという風に、僕自身は宣伝のスタッフにも伝えております。ごめんなさい、余計な話かもしれませんが以上です。
对不起,我有一个小小的补充。我听说有人在暗中议论着不要透露那些孩子们所面临的困扰,因为那会泄露剧情,也听到了一些言论飞扬的声音。但是,根据观众的感受来看,我认为最好是不要带有先入为主的观念去看。我看到了很多这样的感受。绝对不是要把他们所经历的困扰当作话题来对待。在剧情构思上,也许更多是为了让观众在面对这些孩子时,能够更好地与他们共鸣。这也是坂元先生剧本的技巧所在。我认为,被剧情牵引着,不知道自己最终会走向何方,这样的体验可能更好。所以,请不要误解,我已经向宣传团队传达了这一点。对不起,可能是多余的话,就说到这里吧
質問者 提问者坂元さんに伺いたいんですけども、先ほど、今回の作品を通して監督をするのは自分には無理だというようなことを感じたということをおしゃっていましたけれども、今回自分が書いた脚本がこういう形で映像化、作品になったのを観て、自分の想像以上のものができたのかとか、どういうようなことを感じたのかというところを教えていただけますでしょうか。
我想向坂元先生请教一下,刚才他提到了他觉得自己无法担任这部作品的导演,我想知道他对我这次写的剧本以这种形式被拍成电影、成为作品后的感受,是否超出了他的想象,以及他有什么样的感受。能请您告诉我吗?
坂元まず、主演する二人の子供たちを観ているうちに、自分の子供時代のことをどんどん、どんどん思い出しました。自分の名前も忘れて顔も忘れていたはずの友人の顔が、その時急に思い出すなどして、それはもう新鮮な驚きでした。 首先,当我看着两个主演的孩子们时,我不断地回忆起自己的童年。我甚至突然想起了曾经忘记了名字和面孔的朋友,这真是令人惊讶的新鲜感 映画全体としては、本当に本づくりの段階から監督はじめ皆さんに引っ張っていただいて、多くの知己をいただきながら書きあがったものが、編集の段階でもまたよりどんどん変わっていき、というか良くなっていき、映画が成長していく、作りながら、私が書いた設計図にしかすぎない脚本が、どんどん人々が息づいていく、作品になっていくその様子に驚きましたね。一人の観客として出会えたので、それが何よりかなと思っています。
整部电影来说,从真正开始制作的阶段起,导演和大家一起努力,得到了许多知己的帮助,最终完成了剧本。在剪辑的过程中,电影不断地变化,变得越来越好,不断成长。在创作的过程中,我写的剧本只是一张设计图,但它逐渐被人们赋予了生命,变成了一个作品,这让我感到非常惊讶。能够以一个观众的身份与之相遇,这对我来说是最重要的
質問者 提问者実質、今回が映画の脚本としては2本目という風におっしゃっていましたけども、それがこれだけ世界的に大きな賞をもらって、このことがご自身の今後に影響を与えたりするようなことがあると思われますか?
实际上,您曾经说过这是您的第二部电影剧本,但是这部电影却获得了如此重要的国际奖项,您认为这会对您的未来产生什么影响吗?
坂元もう少し早く映画を始めていれば変わったのかもしれないですけど、私もう結構なベテランでカスカスなんですね。絞っても何もでない状態なので、まあ日々いろんなことを学び周りの方に助けていただきながら、書いてるんですが、正直自分がこれから何を書けるのか全く見えてはおりません。振り返った時に『怪物』が自分をもうひとつ成長させてくれたものだったなって10年後に、もしこんなこと言いながらバリバリ書いていたとしたら、この時だったなと思うのかもしれませんが、今はもうカスカスです。(笑)
如果电影能早点开始,也许会有所不同,但我已经是个老手了,有点老态龙钟的。就算再努力也一无所获,所以我每天在学习各种事情的同时,也在向周围的人寻求帮助,写作。但说实话,我完全看不到自己接下来能写什么。十年后回首,我可能会觉得《怪物》让我再次成长了一些,如果我在这个时候说着这样的话,努力地写作着,也许会觉得那就是现在吧。但现在我已经有点老态龙钟了。(笑)
質問者 提问者あともう一つだけ確認で。今内容に関してカスカスだということだと思うんですけど、例えばこれから書くもので映画になるのかドラマになるのか、それとも他のものになりうるのか、そこら辺については何かありますか。
还有最后一个问题要确认一下。我觉得现在关于内容方面已经很清楚了,但是比如说接下来要写的东西会变成电影还是电视剧,或者可能会变成其他的东西,对于这方面有什么想法吗?
坂元当面、映画を書くことは決まっています。ドラマは決まっていません。
现在我已经决定要写电影剧本了。至于电视剧,还没有确定
質問者 提问者先ほどの質問と重なることがあると思うんですが、これまでたくさんのお仕事をされてこられて、トレンディドラマもご自身を鍛えてくれたとおっしゃっておられて。そのあとも様々な社会的テーマと言われるようなところにも次々と取り組んでこられて、作風の幅を広げてこられたという印象を持っているんですけども、この『怪物』はご自身にとってこれまでの書かれた作品の中での位置付けと言いますか、これまでの取り組みの中から『怪物』のプロットに繋がるものがあったのか、そういったことをお伺いしたいです。
我觉得这个问题与之前的问题有些重叠,您之前已经做了很多工作,也说过流行剧锻炼了您自己。之后,您也接连着涉足了各种被称为社会主题的领域,拓宽了自己的创作风格,这是我对您的印象。那么,《怪物》在您之前的作品中扮演着什么样的角色呢?在您之前的探索中,是否有与《怪物》情节相关的元素?我想请教您这些问题
坂元2010年に「Mother」というドラマをつくりまして、脚本を書きまして、2011年に「それでも、生きてゆく」というドラマの脚本を書きました。その時からずっと、先ほどもお話しましたが、抱えていた問題が自分の中にずっとあって、それがここでこんなお話をすることが相応しいのかどうか分からないのですが、加害者というのをどのように描けばいいのか、それが私にとって12年間の長い長い課題というか、自分が考えていきたいテーマだったんですね。先ほどもちょっと言いましたが、加害者がどのようにすれば被害者の存在に気づくことができるか。私たちは被害ということに対して自分自身よく考えることがあるんですが、自分自身の加害という行為に関して考えることは難しい、気づくことは難しい。それをどうすればいいんだろうかということは、私の長年のテーマだったんですが、先ほどのクラクションの話もそうなんですが、『怪物』で辿ったのは加害者が被害者の存在に気づいていく、その道のりを自分なりに今現在書ける最も適したもの、現状書けるものがコレだったという。そういうことを、“社会的”という話も出たんですが、それにまつわることをずっと考えてきたということなんですよね。ですから、これで一つ自分なりの道筋というものになっているといいなと思うんですが、それが、答えが出るかは分からないのですが、現状コレです。
2010年我制作了一部名为《Mother》的电视剧,并担任编剧,2011年我又写了《即使如此,依然活着》的剧本。从那时起,一直以来,我一直有一个问题困扰着我,这也是我在这里谈论的内容是否合适的问题。我不知道如何刻画加害者,这是我长达12年的一个长期课题,也是我想要思考的主题。刚才我也提到过,加害者如何意识到受害者的存在。对于受害我们常常会好好思考,但对于自己的加害行为却很难思考,很难意识到。我一直在思考如何解决这个问题,就像刚才提到的汽车喇叭的故事一样,《怪物》所经历的就是加害者意识到受害者的存在,这是我目前能够写出最适合的、能够表达现状的故事。关于这个问题,我一直在思考与之相关的社会问题。因此,我希望这能成为我自己的一条思路,但我不知道是否能找到答案,目前只能是这样
質問者 提问者ありがとうございます。関連して監督にもお伺いしたいのですが、是枝監督はこれまで坂元さんの作品を観ていて、ご自身の関心とやはり同じものがあって同じ時代を生きていて、そういったこともあって、もしご自身が脚本お願いするなら坂元さんにと前々から言われていたと。今の“社会性”といった、坂元さんがずっと取り組まれてきた、そのことに関しては監督としては今回の作品を含めても、テーマといったところと、今の坂元さんの発言に関して監督からひと言頂ければと思うんですが。
非常感谢。我想询问一下导演相关的事情,是枝导演之前看过坂元先生的作品,他对坂元先生的作品非常感兴趣,觉得自己和坂元先生有着相同的关注点,生活在同一个时代,因此一直对坂元先生说,如果要找编剧的话就找坂元先生。关于现在的"社会性",坂元先生一直在努力探索的这个主题,导演希望能在这次的作品中包含进去,并且希望能从导演那里听到一句话,关于坂元先生现在的言论
監督 监督難しいですね。世代的には僕の方がちょっと上なんですけれども、僕も初めて書いた脚本はディレクターズカンパニーに持って行っているんですよ。僕は89年だったか90年だったか。相米慎二に憧れて。出発点から結構似てるんですよね。90年代、僕はフジテレビの視聴率1%未満の深夜ドキュメンタリーをやりながら、坂元さんのドラマを見る、心の余裕のない20代〜30代を過ごしたんですけれども。先ほどの「Mother」や「それでも、生きてゆく」―「それでも、生きてゆく」は僕の中では圧倒的な打ちのめされ方をしたドラマなんですけれど、自分が関心を持っているモチーフをこんな形で連続ドラマで、しかもラブストーリーで真摯に取り組んで、ドラマを通して何ができるのかを模索している、作り手がいる。本当に、演者と演出と脚本が信じられないくらい高いレベルで成立しているなと。そこから目が離せなくなったっていうのが、正直なところで。“社会派”と言われると坂元さんも「ん?」と思うと思うし、僕も“社会派”っていわれるくくり方であまりピンとこないっていうのが正直なところなんです。モチーフとして選んでいることと、その先で作り手が何を考えて何を描こうとしているのかと、結果的にどんなものになったのかというのは、必ずしもイコールでつながらないもので。特にドラマでも映画でもそうですが、集団でつくってるし、作り手が描こうと思っていないものが描かれちゃったりするので、あまりそれを決めたくないなという気持ちはあります。ただ、同じ時代に生きて同じ空気を吸ってきた。でも吐き方が違ってきた。吐き方は違っていた脚本家と監督が、今回は息を合わせてつくったという感じです。
嗯,确实挺难的。虽然从年龄上来说,我比你大一点,但我也是第一次写剧本时拿给导演公司看的。我记得是89年还是90年。我当时非常崇拜相米慎二。从起点来看,我们有些相似。在90年代,我一边做着富士电视台收视率不到1%的深夜纪录片,一边看着坂元先生的剧集,度过了一段没有心灵寄托的20多岁到30多岁。刚才提到的《Mother》和《即使如此,也要活下去》——《即使如此,也要活下去》在我心中是一部令人震撼的剧集,我在连续剧中以这样的形式,而且还是一部爱情故事,真诚地探索着自己感兴趣的主题,试图通过剧集找到自己能做些什么,真的,演员、导演和编剧的水平达到了令人难以置信的高度。从那时起,我就无法将目光从剧集上移开,这是我真实的感受。如果说坂元先生被称为“社会派”,我想他也会有些疑惑,而我对于被称为“社会派”也不太能理解,这是我真实的感受。选择作为主题的事情,以及制作人在此基础上考虑了什么,想要描绘什么,最终成为了什么样的作品,这些并不一定是相等的。特别是在剧集或电影中,因为是集体创作,所以有时会出现制作人没有想要表达的东西被描绘出来的情况,所以我不太想去确定这一点。但是,我们生活在同一个时代,呼吸着同样的空气。只是吐出的方式不同了。这次,编剧和导演以一种协调的方式合作创作
質問者 提问者ちょっと軽い質問してもいいですか。すみません。 可以问个简单的问题吗?对不起 せっかくカンヌに行かれたので、坂元さんにはレッドカーペットを歩いた時とか、現地で過ごした感想を聞きたいのと、是枝監督には、授賞式後、役所広司さんと2ショットで写真を撮られたりされていましたが、現地で経験したことなど聞ければというのもあり。さらに、1つちょっと気になっていたのが、レッドカーペットでかかっていた曲が『菊次郎の夏』の「Summer」だったのが凄く気になっていて、もし現地で間違えちゃったんだと言われたとかあったら、と気になっていたんですけど…とりあえず、そのカンヌの思い出話、楽しかった思い出話などを聞けたらなと思います。
既然你去了戛纳,我很想听听坂元先生走红毯时的感受,以及在当地的体验。还有,我听说是枝导演在颁奖典礼后和役所广司先生合影了,我也想知道在当地的一些经历。另外,有一件事情我一直很在意,就是在红毯上播放的那首歌是《菊次郎的夏》的"Summer",这让我非常好奇。如果有人告诉你在当地搞错了的话,我也很想知道。总之,我希望能听到一些关于戛纳的回忆和有趣的故事
坂元楽しかった思い出ではないんですが、私3日間滞在していたんですが、お腹を壊してしまいまして、 虽然不是令人愉快的回忆,但我在那里逗留了三天,结果患上了肠胃不适 3日の内2日寝込んでおりました。ただ、ギャガのスタッフの方が優しく、クッキーとウエハースを持ってきてくださって、そのウエハースを食べたらとても美味しくて、カンヌに来て良かったなと思いました。多分、一生あれより美味しいお菓子を食べることはないような気がします。とっても美味しかったです。帰るときでしたね、治ったのは。
我在三天内有两天都病倒了。不过,幸好有个嘎嘎的工作人员非常友善,给我带来了饼干和威化饼,吃了那个威化饼后觉得非常好吃,觉得来干啊真是太好了。也许一辈子都不会再吃到比那个更好吃的零食了吧。真的是太好吃了。正好在回去的时候,我就好了
質問者 提问者じゃあ全然、南仏のお料理みたいなのは… 那么,完全就像南法的料理一样..
坂元料理は機内食は美味しくいただきました。でもほんとに、どんな料理を食べるよりどんな美味しいものを食べるより、スタッフが持ってきてくださったウエハースが最高でした。
我在飞机上享用了美味的机内餐。但是说实话,比起吃什么料理都更美味的是工作人员给我送来的华夫饼干,简直是太棒了
質問者 提问者公式上映のときは大丈夫だったのですか?
正式上映的时候一切都好吗?
坂元あの日は大丈夫でした。あの次の日の午前中に倒れてしまったんです。いい思い出です、これは。
那天没事。第二天上午我突然倒下了。这是个美好的回忆
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
監督 监督レッドカーペットの音楽はですね、事前に何にしますかと聞かれました。それで坂本龍一さんの今回の『怪物』のテーマ曲をお願いします、という風に伝えました。かかったら久石譲さんだったんですよ。(苦笑)これはなんでだか分からない。何かを間違ったんだと思うんですけど。
在红地毯音乐的选择上,有人事先问我要播放什么。我告诉他们请播放坂本龙一先生这次的《怪物》主题曲。结果播放的却是久石让先生的曲子。(苦笑)我不知道为什么会这样。可能是我搞错了什么
質問者 提问者やっぱりそうですよね。絶対、坂本龍一さんの曲じゃないの?!と凄く思っていて。
果然是这样啊。肯定是坂本龙一先生的歌曲吧?!我真的非常这么认为
監督 监督当然そうだと思って歩き始めたんですけど、違いましたね。(苦笑)
当然我以为是这样,开始走了起来,但是结果却不一样呢。(苦笑)
上映終わって出てきてもまたかけてきたので、大好きな曲ではあるんですが・・・なぜあれがかかったのかは分かりません。授賞式でレッドカーペットを歩いていても、「タケシ!」と声をかけられましたんで。もしかすると、どっかで何かこう違っていろんなことが伝わってるかもしれないです。(苦笑)
电影放映结束后,我出来的时候又开始播放了,虽然是我非常喜欢的一首歌,但我不知道为什么会播放那首歌。在颁奖典礼上走红毯的时候,还有人喊着我的名字:“Takeishi!”也许在某个地方有些事情发生了变化,传达了各种不同的信息。(苦笑)
質問者 提问者そのあとの北野監督のレッドカーペットでも「Summer」が流れていたので・・・
在北野导演的红地毯之后,也播放了《夏天》这首歌曲,所以..
監督 监督そうですか。そっちでもしかすると『怪物』が流れたんじゃないかと思ってたんですけど。(笑)
是吗?我在那边也有点想着会不会有"怪物"出现呢。(笑)
質問者 提问者だから、日本の作品は全部久石譲なのかなと思っていたんですが。
所以,我一直以为所有的日本作品都是由久石让创作的
監督 监督だとすると、だいぶ雑ですよね。(笑)まあいい曲でしたけどね。いい曲だったんですけど、ちょっと 如果是这样的话,那就有点杂乱了呢。(笑)
嗯,虽然是一首不错的歌曲。虽然是一首好歌,但有点..
せめて坂本さんにして欲しかったな、というのがレッドカーペットを歩いた皆の共通の意見でしたね。
大家都有一个共同的意见,希望至少是坂本先生走上红毯
質問者 提问者やっぱそうですよね。凄い気になってました。
没错,是这样的呢。我一直很在意呢
監督 监督すみません。伝えておきます。役所さんとの舞台裏については、、、まず、受賞の瞬間に役所さんの名前が呼ばれたときに、僕と安藤サクラさんが一番叫んで歓声をあげていると思います。そのぐらい格好よくてというかですね、本当に嬉しかったです。役所さんがあの場所で評価をされるということが。
不好意思。我会转达的。关于与役所先生的幕后事情,首先,在颁奖的那一刻,当役所先生的名字被宣布时,我和安藤樱小姐应该是最大声地欢呼了起来。这是因为役所先生真的很帅气,或者说,我们真的非常高兴。因为役所先生在那个场合得到了认可
裏で記念写真を撮って、役所さんも恥ずかしがり屋さんなので、あまり受賞した喜びをそんなに言葉にするということはなくてですね、裏で話したのは、今後の日本映画をどうしていくか、みたいな。日本映画界をどうよくしていくか、みたいなことをまた戻ったら話し合いましょうね、という実務的な話をしていました。ずっと応援していただいているので、僕らがやっている活動も含めて。そのお礼を伝えて、日本に戻ったらまた話しましょうっていう、そういう話です。
在内部拍摄纪念照片时,由于役所先生是个害羞的人,所以并没有过多地用言辞表达获奖的喜悦。我们在内部讨论的是关于未来日本电影的发展方向之类的话题。我们将来可以再次讨论如何改善日本电影界之类的实际问题,因为您一直以来都给予了我们很多支持,包括我们所从事的活动。这是一种表达感谢之意,并表示在回到日本后再次交流的谈话
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
質問者 提问者坂元さんにお伺いしたいんですけど。今回、脚本賞を受賞して、今後の作品とかもより一層注目度が高まるかなと思うんですけど、その辺、プレッシャーや不安に感じることはありますか?
我想向坂元先生请教一下。这次获得了剧本奖,我觉得今后的作品会更受关注,您是否感到了更大的压力和不安呢?
坂元プレッシャーのない仕事をしたことがなくて。しかもあまり結果も出たことが、私はそんなにないものですから、いつも怒られながら、謝りながら仕事をしていて。それはビジネス的な面で、とても脆弱な脚本家なものですから。いつも細々と、細々というか、細々というと自虐が過ぎますが、皆さんにお仕事をいただきながらやっているものですから、それは今後もプロデューサー次第だと思うんですけど・・・これでそのプロデューサーたちがおめでとうって言ってくれたり、ご飯食べましょうって言ってくれたり・・・なんの質問でしたっけ?嬉しかったです。
我从来没有做过没有压力的工作。而且我也没有取得太多成果,所以我总是在被责备和道歉的同时工作。这在商业上,对于一个非常脆弱的剧作家来说是很常见的。我总是默默地,或者说是自嘲地做着这些工作,同时也在接受大家的委托。这将取决于未来的制片人,但是如果那些制片人能够对我说声祝贺,或者邀请我一起吃饭...我忘记了你的问题是什么?我很高兴
質問者 提问者世に出していく上で…
在我们走向世界的道路上..
坂元本当にもうカスカスなんです。ただただ、仕事をしましょうって言ってくださることが嬉しくて。それにホイホイついて行ってしまっている自分がお調子者で情けなくて。本当に書けない、ゴメンゴメン、と言いながら謝りながら、周りの方が大丈夫書けるよって言ってくださって、支えられながらやっているので。すみません、愚痴をこぼして。今後、自分が変わっていくとは現状は思えないです。ただただもう、脚本を書くのは地味に毎日朝、仕事机に座って、夜寝るまでずっとパソコンの前に座って。私の万歩計、日々12歩なんですね。トイレに3回行ったくらいなんですけど。大晦日、元旦以外はずっとそんなことをしていて。愚痴で申し訳ないですけれど、楽しい仕事でもないですし、ただただ真面目に文字を書くことでしか何も得られないものですから。こうやってとても華やかな場に立たせていただきましたが、公開が終わったらまた私締め切りに追われて、コツコツとパソコンの前に向かうしかないですので。とても楽しい気持ちにはなれないです。
真的是一团糟。只是听到你说要工作,我就感到很高兴。而且我自己也是个爱跟着去的人,真是可笑又可悲。我真的写不出来,对不起,对不起,一边道歉一边说着,周围的人却说没关系,你可以写得好,他们一直在支持我。对不起,我在发牢骚。我觉得我未来不会有什么改??
翘班跑去随便看的电影,其实刚刚看完的时候并没有感触特别深,但是没想到后劲这么大,一整个晚上脑海里都还在反复回放着对话与画面。。。
片名《怪物》其实很合适,因为怪物的概念串联起了全篇的三个视角——单亲妈妈,学校老师眼中的モンスターペアレント,用不知何处而来的指控不断的挑刺,对孩子过保护,一次又一次的冲击学校的日常;怪异的老师,会沉迷于书中情节的Nerd,谈恋爱也只会买买买的笨蛋,处理不好学生和家长的关系;还有那两位少年,一个不逃避,总在闪躲,总是藏匿,另一个挣扎在自我的认知里,不知所措。。。他们都是明里暗里不同意义上的“怪物”,是与这个社会的一般常识相异的存在。但怪物真的有错吗?他们无非也都只是孤独的个体,想要找个同类的陪伴罢了。。。
片子最重的笔墨当然还是落在两位少年身上,看过这么多中外的 coming of age 主题的电影, 也仍然觉得本片中的这段故事是令人动容的。依里的隐忍乐观让人心痛,而电影对于湊的自我探索的刻画也让人不禁会联想到我们自己的故事。那些人前的痛苦,和私下小世界里甜,对比之下也更让人感叹怪物的艰难。废弃电车里的小世界,林间草地的游乐场,那是不能被社会所接受的青春感情。台风中的重生和放晴后快乐的奔跑,似真似幻,仿佛怪物也终于有了勇气站在阳光下,不再畏惧世界的评论与嘲讽。真的很喜欢片尾的那一场戏,远处的云和近处的身影,在坂本龙一的配乐中慢慢淡出画面,那份青春赤诚的感情,真的让人难忘。而结束散场之后,屏幕前的我们这些怪物,又将何去何从呢。。。
有好几处非常戳心的细节片段,比如妈妈轻描淡写的说着希望湊能有一个平凡普通的幸福家庭,但这看似轻柔的美好愿望却像一座大山,让年轻的孩子无法承受;去世的父亲被刻画的仿佛是一位爱妻爱子的慈父,其实孩子却心里清楚的很父亲是为什么去世,以及那背后不能言说的故事;电车里两位少年初次亲密接触,对于自己身体的反应而不知所措的湊;还有两个怪物少年轻松的说着转生与宇宙崩溃后的故事。。。
影片另一个很有趣的地方是并没有把每个人刻画的那么纯粹无暇,看到最后我们都知道了:依里确实放了火,湊确实撒了谎,校长确实是自己失了手又转移了责任。。。而这些同时存在的恶,也让怪物的形象更鲜活,也仿佛正当化了他们怪物的身份,让他们确实都成为了怪物吧。
总之,影片很有是枝裕和电影一贯的细腻与独特,这是一个关于两个少年的欺骗、吸引与成长的故事,这也终究是个理不尽的故事。影片很巧妙的在一条时间线里通过三个视角探讨了太多的社会元素,或许对日本社会了解不深的朋友会看的有点迷糊,会觉得太满,但无论如何,我还是为这两个云下林间奔跑的少年动容,久久的回不过神来。
我们都是怪物,我们与这个世界或许格格不入,为了匹配一个同类而与世界作对都不顾。可我们也并不是怪物,我们也想向所有爱的人证明,我们也可以很好的活在这个世界上。转生不易,让我们都彼此珍重吧。
@FFMUC23 的最后一部,怪物,弥补了在戛纳没有看到的遗憾。这是一部好看的电影,这里的好既代表了“优秀”也代表了“易于服用”。
“易于服用”
我认为这是坂元裕二参与编剧和类型片拍法的共同作用,充满悬疑感的设置必然更容易吸引观众。故事被切分成三段不同的视角,这不仅是形式上的花活,更是和表达的内容高度统一的。在每一段的故事里,观众从未获得过“上帝视角”,而是用一种类似POV的展现方式,这样做的好处是显而易见的,一方面可以帮助(强迫)观众在每一段故事中和主视角人物共情,另一方面观众的部分疑惑会在下一段故事中被解开。让观众在“ta为什么要这样”——“啊原来是这样”中循环,在多次的“提问“——“解答“后,我们发现被反复诘问的对象都只是在自己有限的视角内,做出了理性选择。
谁才是怪物?
不止一次地看到文化学者或创作者提到现在没有明确的敌人了。萨特提出的“他人即地狱“,上野千鹤子说“所以我们有明确的敌人。比如父母,比如父权社会,这些都是姿态鲜明的敌人。正因为他们姿态鲜明,我才得以反抗。因为我的痛苦根源在外部。但是到了下一个世代呢?她们不得不在自己内部寻找痛苦的根源。”显然,孩子们,单亲妈妈,老师,校长从上帝视角来看都不是那个怪物…但是在他者的视角中,他们往往单独或合谋成为了那个怪物。我认为所谓的怪物是一种系统性的信任缺失。在互联网时代,任何道德失范、诚信缺失、监管缺位,都会被放大并迅速传播。人与人,人与组织之间的信任既难建立,又易崩塌,影片中还着重展现了“逃避主义”的处理方式,但在愈发注重个体感受的现代舆论体系中,我们无法责怪这种方式。
没有解药
是枝裕和通过视角的切换,完整的展现了在这种系统性的信任缺失中,一句话就可以刮起的蝴蝶效应。我们不能期待创作者既提问又回答,作为观众的我们同样没有回答的能力。导演给了一个“开放“的结局,之所以是“开放”,是因为无论是观影结束的当时还是已经过了几天的现在,我都认为最终两个孩子在明媚的阳光下奔跑是非现实的场景。同时,我同样尊重愿意相信那是真实的观点。无论真实与否,伴着缓缓想起的钢琴旋律,两个孩子飞奔出草丛,冲向不再有栅栏的铁轨,这是导演留给所有人的温柔。
坂本龙一
写到最后刚好是音乐部分,水到渠成又恰逢其会。可能是因为故事被切分成三个部分,在整个观影过程中,我更倾向于在“理解”而非“感受”,但有三个时刻我实打实的被情绪击中了,这三个时刻都伴随着极其出色的配乐。第一次是母亲在面对机器人般的学校老师时,响起的管风琴声;第二次是校长和Minato一同吹起的圆号和长号,伴随着号声,会想起母亲寻找Minato时隐约听见的声音,会想起天台上的Hori老师,会随着镜头缓缓摇到水边。非线性的三段时空在此交汇,每个人物的情感在此叠加,被铜管乐器诗意化。(回顾时突然想起了使用爵士乐的燃烧,也是由铜管乐器带来的诗意);第三次是结尾,Minato和Yori携手飞奔,冲出草丛,最终到达没有阻碍的终点,干净的钢琴旋律缓缓响起——黑屏,琴声继续昂扬。结尾的《Aqua》收录在BTTB这张强调做减法的专辑中,静水流深,伴随着流淌的钢琴,影片中影片外的故事缓缓涌上心头…三段单类乐器构成的旋律,让我留下了最深的记忆,比起声部的堆叠,我想做减法是一件更难的事,想到坂本龙一已离我们而去,鼻子一酸最终还是没忍住。
仔细想来,我并不是因为情节落泪的,而是音乐结合戏里戏外的画面把情绪顶到了流泪的阈值(当然这个阈值本来就低)。转念又想到perfect days结尾其实也是靠feeling good和役所广司的演出顶起情绪的,可能我就是爱看虚伪的人文关怀和胸口碎大石。
是枝裕和的新作《怪物》在今年的康城影展荣获最佳剧本奖和酷儿棕桐奖,还被一些看过的影迷朋友半开玩笑地戏称为东亚地区版本的《亲密》。巧合的是,《亲密》的导演卢卡斯·德霍特正是上一届酷儿棕桐奖得主。
从主题和内容上看,《怪物》也描写两个男孩之间真挚单纯的同性情谊,尤其在《怪物》的片尾和《亲密》的开头,两位导演不约而同地选择以摄影机的稳定横移,见证两个男孩对纯粹情感的渴望与追逐。
不同之处在于,是枝裕和/坂元裕二在《怪物》里试图达成或实现的,比起专注男孩心理、情感幽微变化的德霍特,牵涉的范围更广——社会体制层面,也更有野心。
《怪物》以一场高楼大火拉开帷幕,编剧坂元裕二采取多重视点下的罗生门式结构,分别是安藤樱饰演的单亲“妈妈”早织、永山瑛太饰演的保利“老师”、两个“男孩”麦野凑(黑川想矢饰)和星川依里(柊木阳太饰),三个视角构成影片里彼此独立,而又相互联系的三幕剧。打破平静安逸的生活,酿成轩然大波的“事件”是数次疑似欺凌的校园冲突。
影片先从首幕麦野凑的母亲早织视角出发,她逐渐察觉到儿子一反常态的异样。当从儿子口中得知他经常被学校老师以暴力对待之后,早织为了保护儿子,孤身与校方对质,要求涉事老师诚恳道歉。然而得到的却是校方一遍又一遍的机械式回应,以及保利老师轻描淡写的所谓“致歉”。
此刻观众能够感受到护子心切的母亲在面对更为强大的校园体制时展现的被动和无力感。与此同时,这一章的保利老师留给观众的最大印象则是犯下霸凌学生恶行的失德教员。
进入以保利老师为主角的第二幕,上一幕的坏印象被彻底推翻了。这里的保利老师是个时刻为学生着想,性格率直的好老师,“老师霸凌学生”的指控纯粹子虚乌有。此外,从他的视角出发,了解到的事实却是“麦野欺凌星川”。但是面对只想尽快息事宁人的校方、学生的谎言,以及一发不可收拾、毫无根据的恶意流言中伤,保利老师不得不背负欺负学生的骂名,丢掉教职,人生跌落谷底。
第二幕结束于保利老师无意间发现麦野和星川的秘密,因错怪自己的学生为欺凌者而懊悔万分的他前往麦野家道歉,两个男孩却在暴风雨之中不知所踪。至于萦绕观众心头的两个问题——谁是怪物?两人之间究竟发生了什么?——亦在终幕获得解释。
因此,有别于德霍特在《亲密》一开始便单刀直入剖析男孩内心的做法,是枝裕和/坂元裕二采取的叙事策略,是在将主视角放回两个男孩身上之前,需要先从母亲和老师代表的“成人视角”出发,描绘大人们所在的那个冷漠、阴险、复杂,且无人承担罪责的世界——名曰日本社会的“怪物”,再以此反衬终幕登场的纯真无害的乌托邦——麦野和星川经常流连于郊野外的荒废巴士。
当然,成人世界的污浊从来只是相对的,离开“乌托邦”的麦野和星川一样要面对孩童世界单纯表象之下的邪恶一面——“党同伐异”风气的挑战与侵蚀。坂元将来自“成人”和“孩童”的压力与恐惧分散在两个男孩身上:麦野承受的是因自己(性取向)与同辈相异而被疏远排斥的焦虑;星川除了遭同学长期欺凌之外,更要被迫忍受来自父亲(中村狮童饰)/父权意志的恶言相向——人头猪脑的“怪物”——甚至被强制实施性倾向矫正疗法。
麦野对性别认同的烦恼主要体现在剪头发、推搡他人;星川经常被异性恋父亲施以言语侮辱和体罚。两人在结局的手拉手奔跑是迈向“自由/死亡”的解放式象征。编导作出如此安排是否妥当?是否落入外部视角下大众对酷儿群体的既定印象窠臼?对于心智尚未成熟的孩童,直接描写他们对性取向的自我认同或他人认同又是否合适?这些问题应该值得我们在观影时多加留意和思考。
坂元裕二的剧本在如何抓住观众注意力、抑制和释放情绪痛点等方面有着精确的计算和掌握,与之相应的,则是编剧在每一幕中对受害者/施暴者进行清晰划分。例如第一幕里的早织、麦野/校方、保利;第二幕:无辜的保利/校方、学生、媒体、麦野,而星川既是校园霸凌的受害者,又是致使保利老师被辞退的造谣者(之一);终幕:麦野、星川/施暴学生、星川父亲。在幕与幕之间必然会出现的戏剧化反转——意味受害者/施暴者位置发生变化——承担着视角转换、推动情节发展的功能。
之所以能够在每幕制造反转,从而维持让观众持续追看下去的悬疑性,关键就在于编导严格控制前两幕的主角和观众获取的信息量。在前两幕营造一系列令人颇感疑惑、甚至刻意误导观众的场面与瞬间,如第一幕麦野无预警跳车的危险举动;第二幕星川被同学捉弄关进厕所,最后离开的人却是神色慌张的麦野。这些不完整的、片面的客观事实逐步拼凑成“母亲”和“老师”对整起事件的主观认知(不可靠的叙事者)——母亲担心儿子在学校遭遇欺凌,老师则认定是麦野在欺负星川。
第三幕娓娓道来麦野和星川难以启齿的亲密关系,揭秘前两幕刻意遮掩的视角盲点,反过来抨击大人们总是相信他们看到的就是唯一的事实,正是这种认知的局限性产生了针对同一事件的不同偏见。虽然在摧枯拉朽的暴风雨之中,他们狭隘的视野终于被打开,事情却已滑向无法挽回的地步。因此,大人们几乎找不到两个男孩的踪迹,而孩子们无论怎么用双手奋力拨开泥泞,仍会重新覆盖,遮住大人们的视线。
我想以人体生理结构的维度为例,简单解释《怪物》在多重视角下的另一面向——亦即存在可靠叙事者的前提下,能够抵达事件核心的“递进式结构”:皮肤(母亲)、肌肉(老师)、器官(两个男孩),一根针(划破平静的事件)从刺穿皮肤,到皮下组织、肌肉,再到内脏等器官,整个过程是由外到内的。伴随针尖的不断深入,疼痛感也逐渐加重,观众可借此获取不同程度、清晰可辨的情绪痛点。
坂元为了延续影片的悬疑性,而特意安排的紧凑情节和谜题,其实都会导致观众在前一幕感受到的情绪(痛楚)被下一幕更为汹涌的情绪力量所分散、淹没。换言之,母亲的痛、老师的痛、两个男孩的痛在影片里是难以并存的,正如是枝/坂元在前两幕对日本的教育体制作出的激烈批判,与终幕中两小无猜的纯真世界似乎并不完全处在同一频率。越接近事件的“真相”,更加浓烈的情绪或思绪便会轻易压制之前的感觉,牢牢占据着主导地位,对观众产生预料之中的作用。
而在过去是枝自己操刀的剧本,他通常的做法是直接把脏器由内向外翻出来给观众看,考虑到(事件本身)过于“残忍”“血腥”,是枝多以轻声细语的生活流叙事手法进行适当修饰。虽然这样做无异于抛弃了条理分明的完整结构,但由于暴露在外的脏器仍与皮肤和肌肉紧紧粘连,各个部位的疼痛感交相混杂,观众反而能从中体会到一种感知上难以明确区分排序的复杂性。
这正是在《无人知晓》,又或者在《小偷家族》里能够感受到的:温柔平淡、与死亡和悲伤保持距离的日常生活;急速下坠的残酷事件、来自社会的漠视与伤害;不问善恶、展现纯粹生命力的人物群像……影像当中不断涌现的情感、快乐与痛苦,是枝在弱结构的生活化叙事之中开辟出一个供各种感觉共存的流动空间,它们一起向观众袭来,所造成的晕眩状态同样是难以言喻的。
诚然,坂元给是枝带来的强结构、富戏剧冲突的悬疑类型文本并非全无优点,它成功让是枝不再囿于(原生、非原生)家庭之内的生活化描写,而后者相信也是是枝在《小偷家族》大获成功之后陷入创作焦虑的主因。在后金棕桐时代的两部非日语异国创作,一部是法语/英语为主的《真实》,一部是韩语的《掮客》,是枝在这两部作品里决意离开一直汲取灵感和寻找题材的舒适圈,尝试从国族疆界、语种、类型、叙事方式的跨地域性,努力走出自我重复的创作桎梏。
是枝的试图转型与求变精神兴许还要更早,比《小偷家庭》早一年的《第三度嫌疑人》固然是一部不太成功的悬疑犯罪片(仿罗生门式结构类似《怪物》),而这时候的是枝已经开始在片中直面探讨日本的死刑存废、对司法系统的冷静审视,乃至法律与道德的辩证关系等涉及社会和制度层面的议题。
自此之后,在是枝的作品中尽管仍离不开家庭主题,但从社会角度进行的思考与批判不再似以往咁收收埋埋,而是更加明显与直接,如《小偷家族》借一个“品行不端”的非原生家庭,挑战日本社会根深蒂固的家族观、文化观;《掮客》反映韩国日益严重的弃婴议题(婴儿暂存箱)。即使是不涉社会议题的《真实芳言》,是枝也分了不少笔墨在探讨著名女演员的分裂人生,并表明记忆的不可靠性与“真实”本身的可塑性。
这次《怪物》涵盖的议题数量堪称是枝作品序列之最,也是截至目前最为激进的一次影像表达。囊括了日本教育的体制弊端、单亲家庭之难、谎言/流言的巨大伤害、校园暴力、懵懂同性情愫、父权社会的系统性压迫等时下热点话题坂元在每一幕都帮是枝设置相应的议题与符号,对家庭以外社会结构的大范围批判,亦极大地帮助是枝打开原本(只有家庭)的世界。
话虽如此,坂元高强度文本把持下的《怪物》却是名副其实的“结构/概念先行”,在事件的每个侧面都被填塞议题,最直接的后果是形成流于表面的堆砌状态,几乎完全失去留白空间,而且为了维持结构完整性,是枝/坂元更是不惜牺牲角色塑造和剧情逻辑。
这里只说最明显的一点。影片围绕“善人也有恶的一面,反之亦然”的概念大做文章,其中有一段情节是说人畜无害的星川因为三番四次在公众面前说谎,导致保利老师身败名裂,被迫离开教职。然而,实际上电影并没有为星川和麦野之所以非得透过诬陷保利老师才能保守秘密,提供一个能确切说服观众的原因。
写在最后,《怪物》令我印象最深刻的场景,是在第三幕后段,麦野和校长(田中裕子饰),企图隐瞒真相的一老一少在音乐教室吹响大号,因为两人无法向外界坦诚表达心中所想,便只能以如此方式释放压抑的情感。这些飘浮到城市上空的不和谐音,却“意外”阻止了对未来深感绝望、准备跳楼轻生的保利老师(第二幕)。
是枝裕和不再为了如何平衡残酷与温柔而苦恼(《掮客》是一次失衡的例子),与坂元裕二的首次合作,在《怪物》做出的有别于往昔风格的新尝试,瑕疵当然不少,但勇于改变的创作力值得赞赏。他未来会成为一位有能力综合各类主题的作者导演吗?且让我们拭目以待。
本文首发于「虹膜」
对我来说是一部足够打动我的片子,坐在我旁边的姑娘们一直流眼泪,说“这个片子好东亚啊”
最值得关注的两个表演镜头:1. 安藤樱抓住儿子肩膀长长定定地注视着他等待他的回答;2. 钢琴曲的尾声中校长在雨中身体佝偻承受风雨的模样。每个人都在他处有自己的生活。【看安藤樱表演最感慨的是,想起第一次被她惊艳到的小偷家族里的样子,怪物中的安藤樱完美地呈现了全然不同的模样。看着怪物里的她,我甚至会怀疑是不是自己记错了,小偷家族的演员另有其人。给演员一点时间与空间,让她消失,让她REBORN 】
文本技巧(坂元裕二式?)和表演控制上真的把这个故事的悬疑性和戏剧性拉满了,但相比于前两条线如此郑重其事声讨无人承担罪责的日本成人世界,即那个真正的国族“怪物”。由这两个小男孩共同建立的“真相”,则显得有些轻巧和虚假,失去了是枝裕和惯常对孩童忠实的跟随和捕捉,取而代之的是一种概念先行,不断为故事的可信性做补充的刻意感,乃至议题感。同样情感,在去年戛纳的《亲密》中以更现实主义的作法获得了确认。
日本版亲密with a happier ending,三个不同的视角有意思但没必要
#76戛纳主竞赛# 未能为挚友最需要的时候挺身而出而追悔半生,亦或共同面对艰难人生甚至粉身碎骨,我坚定不移的选择后者
同性、家庭、校園暴力、後311創傷…看得出來很想拿獎。儘管他自有風格、穩定發揮又切題,但他最終是一則死板的命題作文。音樂啊,為阪本龍一淚目。
和《亲密》有那么一点撞题,又很有是枝裕和之风,前期沉稳地叙述,揭示不同人物看到的表象和自身出发点带来的后果,积累到最后揭开真相,蓄积了情感,爆发巨大的能量。不过这个结构还是有待商榷。两个孩子缘何被推向边缘,进入自己的小世界,不为人言说又彼此心知肚明的情感,尽收眼底。成人始终只见其表象。暴风骤雨之际,也只有无畏无惧的孩子才可以抵达彼岸。
3.5真的太喜欢了 所以这个光明的结尾是导演改了的吗😭😭😭所有人看似是怪物 所有人也都不是怪物 一会复盘呜呜呜…
还得是是枝裕和啊,悬疑中见温情三重叙事线令人印象深刻,这个玩法虽然已经老套但依旧能拍出新意,三条线的代入感都很强,但有些故事弧感觉有些牵强…全程在思考为什么大家都不跑路,这样的学校还有什么可待的啊……两个小男孩都太漂亮太可爱了!
从知道是枝裕和这次要拍的核心内容后,就在猜测他会用怎样激进的方式突破自我。直到看完全片,你才明白他还是那个他,在表达方式上甚至有些执拗的他。一个人对于一些人而言,永远都有可能是那个“怪物”,可这就不能拥有自我了吗?而真正能够和你感情交融的,正是那些你的“同类”。是枝裕和用细密的勾连,让你的对面不再是落空的座椅,是抚摸你发梢的指尖。安藤樱和黑川想矢的极佳表演让一切几近完美。
#Cannes76 三个视角和他们的三个故事 层层剥开的真相和情感 只是我更希望他们是友情的救赎
3.5,被彼此困住的是枝裕和与坂元裕二。一个崇尚把一切不好的都抹去、全员善人于是一切都是好事,一个崇尚把事情最坏的一面写出来、全员善人但都像怪物。水清无鱼和四处留情共存能不能繁荣不知道,他们俩的结合似乎没有,the story is just too sophisticated to be true. 还是坂本龙一的绝响更动人,音乐响起,boy's love在终结后永生。
很遗憾,是枝裕和在成为一名悬念大师的道路上越走越远。同一段故事以不同视角重述,的确让电影更加“好看”,却也造就了一部但凡被剧透便再也不值得看的快消电影。我们不禁怀念起从前是枝裕和电影中作者与人物之间亲密又疏远的关系,怀有无尽的好奇,并发出真诚的关切,而这一切在《怪物》中仅剩下对热点议题的拼贴,以及演员在极端情境下完成的应激反应,以考察观众的同理心。一种制作规格升级后的再次迷茫。
哭了
见证是枝裕和用尽全力把掮客背刺观众的给还回来多视角塑造的悬疑氛围质量远超预期,以紧凑的情节和谜题吸引观众,最后再落到对无人担责的成人社会的议论(全片最大怨种当属全程misunderstand和被misunderstand的Hiro sensei😢真的太冤了🆘
学生和校长在教室里吹圆号,我在影院哭的好大声
B+. 确实是绝不可以被剧透的电影。视角切换的三段式结构给人近乎悬疑片的快感,每处“闲笔”或反常都在后续的“反转”中得到验证,甚至变成情感上的重击;而这种叙事上的”骗术”和故事的核心也是一脉相承的:是枝裕和讲述的是谎言的伤害,而有时我们欺骗的不止别人,更是自己。(还是要感慨,我,尤其是我,怎么会这么晚才意识到“怪物”是什么?)2023.5.17 Debussy
影片分三段,各以安藤樱饰演的单身母亲、瑛太饰演的老师和男孩自己作为视角,讲一对男孩失踪始末,是枝裕和的叙事保持水准,让我始终好奇怪物究竟指代什么。我常用细雨来形容是枝裕和的短镜头,让他更善于编织绵密的情感,谁能想到他也拍了boy‘s love,德霍特《亲密》东亚姊妹篇(二者故事其实很不同)。但坂元裕二的编剧总是着迷于结构,情节一清二楚、一目了然,第三段依然没有逃脱出日本商业片的温情套路,单身家庭、校园霸凌等议题点到为止,不了了之。坂元裕二和是枝裕和显得并不调和。导演还是自己写剧本吧。2.5
It's beautiful. 宇宙膨胀到最后,时间会倒流。我们,火车,猫猫都会回到一切的起点,人类会变成猿猴,恐龙会统治地球,一定要早早做好准备呀。敏感细腻的少年心事像清脆嫩绿的初夏的森林,不知不觉生长得葱葱郁郁。于暴风骤雨中勇敢地往前奔跑,秘密都随着管乐低沉的声音消散在宇宙,最后河流依旧,我们柳暗花明。是枝欲合展开故事的方式像片中的通往秘密基地的甬道,经过狭小而深邃的暗角,到达锈迹斑驳的旧车厢,一片充满想象的灵动的天地。在我作为孩子的依稀记忆中,我确信那是属于他们的华丽飞船,定会载他们到达想去的世界。
#Cannes2023-6 是枝裕和和初次合作的编剧坂元裕二以三段式的结构讲述了一个带有单亲家庭、校园霸凌、师生关系等社会热门话题要素的故事,三次视角的转换却剥茧抽丝地呈现了“真相”的更多维度。少年之间至纯至善的情谊赋予了影片汹涌澎湃的情感内核。“怪物”究竟是没有共情力的成年人、无意识地党同伐异的同学,还是无法面对自我边缘身份的少年,这是影片让人回味无穷之处。